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心や神

 投稿者:仁人  投稿日:2011年 6月30日(木)23時29分14秒
  科学的に心や神を解明するというときに心や神を現象として分析し、パターンを特定するということになると思います。そしてなるべく単純な要素を言い当てる・・例えばプラスとマイナスとか、このような特性があるとか・・・・そのように考えても神様の特徴は愛としか言い表せない・・とします。愛は基本は単純でも多様性を持っているのでこれを科学と言っていいのか?という問題になります。でも・・科学って結局は最終的な要素はあるとしか言えないのですよね。そのようにしてあるとしか言えない神様が解明されるのもありではないかと私は思います。  

疑問です。

 投稿者:orz  投稿日:2011年 5月29日(日)16時41分17秒
  人間は得体の知れないものを恐れます。
だからこそ、いままでに化学や数学などの学問が発達してきました。
でも、その時代の学問じゃ解明しきれなかった現象があります。
自分はそんな解明しきれなかった現象が
“オカルト”とゆう分類になっていて必ずしも解明できないなんてことはないんじゃないかなと思います。
現に、昔は霊魂とされた火の玉だって、正体はプラズマだと解明されてますし。
だから、きっと神についてだって時代が進むにつれて科学的観点で解明できるようになるんじゃないですかね。
 

re:神は存在するか

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2010年 2月16日(火)21時59分35秒
  catbird様

ご投稿、どうもありがとうございます。
まさにおっしゃる通りだと思います。

自分という存在が絶対的存在として存在する。
その理由・原因は、絶対者・神様にしかないということですね。

仏教では、絶対者のことを法身仏といい、この被造世界のことを法界と言いますね。

http://www.c-player.com/ac55492/

 

神は存在するか

 投稿者:catbirdメール  投稿日:2010年 2月13日(土)15時52分4秒
  神は存在するか。では神とは何でしょうか。その問いに答えるには、まず私とは誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳をとりだしたらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱いとか感じている存在が私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界(外界と呼ぶ)には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭いも外界にはありません。熱い冷たいと言う事は、在るでしょうか。物質が振動しているだけです。絶対0度では、全ての振動が止まります。温度が高くなるに従って、物質の振動が大きくなって行くだけです。熱い冷たいもありません。全て心が作り出したものです。次々に、心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。仏教では色即是空と言います。心が作り出したものは、現れたり消えたりします。従って、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空です。5感=色、概念=受、感情=想、意思=行、認識=識からなる心の働き全ては、現れたり消えたりし、定まった実態はありません。五蘊皆空です。ですから、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花に対応する動きをします。私は、その花に対応する物質の動きを感じて、花を感じるのです。それは丁度、カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花を感じているのが、私なのです。脳と言う物質そのものが、花を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に、陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。赤いとか熱いとか言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。赤い熱いと言う感じは、私の一部です。私は、精神的な感じの集まりなのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。
同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。
仏教ではこの事を、不生不滅・不垢不浄・不増不減と言っています。私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。ただし、人間の脳とは限りません。
心の中に作り出された世界は、私の一部です。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。その1人は、宗教上小さい私とかアートマンとか呼ばれています。心の中の世界に居る私の敵も、私の一部です。ですから、キリストは汝の敵を愛せよと言えたのです。
人間の脳より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は、私のほんの一部にしか過ぎないのです。私に限界はありません。脳と言う物質がどんどん進化して全知全能な物質になり、私に信号を与え出したら、私は全知全能になるはずです。本来の私は、全ての感じの集まりなのです。全てなのですから、これ以上の精神的な存在はありません。この私を大きい私とかブラフマンとかと呼ばれています。
宗教の目的は、小さい私の誤解を解いて、大きい私を自覚することにあります。それが、悟りです。仏に成るのではない貴方が仏なのだと言っています。天上天下唯我独尊です。神の子です。ブラフマンです。貴方は、自分の存在を疑えますか。デカルトは、全ての事を疑って見ました。しかし、考えている自分の存在だけは疑えませんでした。これが神は存在するかの答えです。
 

re:神とは・・・

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2009年 7月31日(金)09時31分31秒
  信仰者さん、ご投稿ありがとうございます。

とても篤い信仰を持っていらっしゃるんですね。

物理的なものも神様がおつくりになったものです。
ですから物理的な法則を尊重することも、神様を理解する上で、必要不可欠のことだと思います。

神様は超越したお方であるとともに、世界一の数理科学者でもあると思います。
 

神とは・・・

 投稿者:信仰者  投稿日:2009年 7月29日(水)04時57分4秒
  神は二性性相の中和的主体とかではありません。
この宇宙は聖書では神が創造したものでそのような物理的な存
在ではなく「在って在るもの」「最初であり最後」の方であり
ます。
なんかと物理的なことに結び付けて囚われると強い物理的な力
に飲み込まれて滅んでしまいます。それがサタンの力なのです
。共産主義、統一原理、イスラム原理というものは何かと理論
理屈で物理的な法則が垣間見えます。
信仰は物理的力を超越したものでありその上に成り立っていま
す。
イエス様は「海の上を歩かれたり」「死後蘇り昇天したり」と
いったように物理的力では考えられない事をされています。そ
れが信仰の力なのです。
何かと頭で考えるのが得意なのが朝鮮の人のようですが理論理
屈はハングルと言う言葉でも伺えますが、理論理屈は物理の世
界の話です。理論理屈の物理の世界を求めると核兵器とかで統
制しようとして滅んでしまいます。
エデンの園を守っている「炎の剣」は宇宙の物理的力を言って
いて炎で攻撃するとそれが回ってきて攻撃を受けるのです。
イエス様が弟子が剣を持って切りつけようとしたときに「まだ
分からないのか?」といったのはそのような理由からです。
統一教の人が当方の教義を否定したりするので一言言わせて貰
います。
 

re:愛について

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2009年 6月 6日(土)12時10分11秒
  これはとても難しいご質問ですね。

といいますのは、のぶえさんがお相手を疑ってしまうようにはさせたくないし、かといって、お答えしないわけにもいきません。

お二人で本然の愛をつちかっていってくださることを願いつつ、お答えしたいと思います。

偽りの愛は、自分への利益を優先して接する愛です。
たとえば「美人だからつきあおう、世の中で一番美人の人を自分は探しているんだ。」というのが動機ならば、これは偽りの愛です。もっと美人な人が現れればその愛は消えていってしまいます。

本然の愛は、与えたいという純粋な気持ちです。「あなたを幸せにしてあげたい。」という気持ちは本然の愛です。

でも、本然の愛と偽りの愛が同居している場合もありますね。ほとんどのカップルがそうかもしれません。
ですから、偽りの愛の気持ちに打ち勝ち、本然の愛をはぐくんでいくことが、どんなカップルにも必要なことだと思います。
 

愛について

 投稿者:のぶえメール  投稿日:2009年 6月 3日(水)22時54分55秒
  こんばんは。
今お付き合いしている彼との結婚を考えております者です。
わたくし頭がよくないので何を言おうとしているか理解に苦しむかもしれませんが質問させてください。
本然の愛と偽りの愛、今自分達の愛がどちらなのか知るにはどうしたらわかるのでしょうか?
 

re:質問です

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2009年 5月23日(土)15時00分38秒
編集済
  不さん、ご質問、ありがとうございます。
世の中には不幸が多いので、どうして神様はこんなに不幸な世の中をおつくりになったのだろうか、と考えがちです。

しかし、神様は、一切不幸はおつくりになりませんでした。

世の中を不幸なものにしてしまったのは人間です。
人間は、始祖アダムとエバが未成年期に不倫して、神様の祝福を受けないまま堕落した状態で広がり、今日まで来ました。

神様の願いとは裏腹に、堕落した人間が作った社会は自己中心的なものでした。

働くのは何のため?自分が生きるため、それにはお金を稼ぐ必要がある。自分を中心に生きていくしかない・・・。

これは神様の願いとはまるっきり反対の様相です。

神様は、どの木の実からも取って食べてよろしい、とおっしゃって、人類が生きていくのに十分な食べ物や環境を与えてくださっています。


才能を生まれ持った人は確かにいます。
それが今の世の中では不平等に見えます。世の中が神様の願いとは異なっているからです。

神様が最も願ったものは何かというと、愛を与え合う姿です。
才能を持った人は才能に恵まれなかった人を助けられるからこそ、そこに愛が生じるのであり、その愛の完成こそが神様の願いだったのです。

ですから、才能を持った人がその才能を独り占めして世の中をうまく生きていくようなのは、根本的に間違ったところがあるのです。
 

質問です

 投稿者:  投稿日:2009年 5月19日(火)21時58分4秒
  神様は何故幸福と同時に
不幸も与えたんでしょうか?それとも不幸は悪魔の仕業なんですか?

生まれ持った才能のある人は神様に愛されているからなんですか?


私は不思議に思います。
 

人間は、貴い存在です。

 投稿者:地球人メール  投稿日:2008年10月 2日(木)17時43分37秒
  はじめて、投稿させていただきます。小生も求道者として。
神様は、どんな目的で宇宙や地球星を創造されたのか
最も愛する人間に(我が子)望みは、創世記1/27
神様は自分のかたちに創造し、男と女として創造した。
神は彼らを祝福して言われた、[生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。・・・・・これは、人間が(人格者)立派に成長して素晴らしい伴侶とも家庭を建設して、子孫を繁栄しろ。万物を愛で主管して幸福な環境を整えろ!これから神からのメッセジーでした。

神様の愛は、完全的・唯一的・不変的・永遠的な愛です。
人間は、絶対的愛を求めています。これが、幸福の原点です。
このような愛が人間の到達するべき、基準です。
そこに、夫婦愛も完全です。そうような家庭の子孫も、子々孫々の繁栄する。家庭を目指すべきです。
神様と一体化して神様と共に、愛で万物を主管して素晴らし家庭環境を建設するのです。

 宇宙の世界を見ると、蒼茫広さに感動します。我々の地球がある銀河系では、星が100億あると言われています。この宇宙には、そのような銀河系が、1億ぐらい有るそうです。この膨大な夜空に見える星は、何十万光年距離に有ると言われます。光の速度は、1秒に地球を7周する速さですが。光の速度で、一年間の距離が1光年です。今見えている星は、計りしれないほどの時間が経過しているのでしょう。我々の地球歴史は、48億年ですか。人類が誕生は、100万年でしょう。人間の命は、100年ぐらいでしょう。宇宙から見た100年は、一瞬の目蓋の時間にすきません。そんな小さい人間の意義・価値・理想と何でしょうか?人間は、心と躰からできています。目に見える躰は、60兆の細胞から脳や五臓六腑から構成されています。
身体は(臓器・脳・五感・骨格・筋肉・血液・体液)素晴らしい機能です。
 神様の祝福により男と女の合体が心と体の愛のビックバンが始まると、まさしく神秘的でものです。男性の精子は、1億5千万~2億の中のたった一つの優秀なサラブレッドが、到達できるのです。残りの全ての精子は、犠牲になるのです。男性の精子は、1日に約5千万~数億個ずつ、死ぬまで作る精子の数は、1兆~2兆個にもなるそうです。女性が、受精して生命として誕生できる精子は、1兆~2兆個のうち、たったの2個か5個なのです。驚くべき神秘的な出来事です。人間が誕生するのは、尊いのです。人間は、小宇宙といわれる原因です。
 本来の愛する事、愛され事は、ために生きる事です。唯一的の男女であり、唯一的の夫婦であります。永遠に夫婦の愛です。夫婦の心は不変的です。夫婦の愛こそ完成の愛です。神様の願いは、神様を中心とした家庭です。人間は、愛の完成であり。過去・現在・未来に繋げる歴史的な結実体です。
人間は、遅かれ早かれ、死が訪れます。肉体は、土にもどり霊魂は、永遠の続きます。
地上界が暮らした生涯が、永遠の世界では本性丸裸になります。ために生きた人は良心的生活になります。
反対に、自己中心的に過ごした人は、それは悲惨な生活が待っています。
 

(無題)

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2008年 9月 4日(木)05時52分46秒
  8日まで不在になります。
この間、更新が出来ませんが、なにとぞご容赦ください。
 

たろうさんへ

 投稿者:由希子  投稿日:2008年 6月10日(火)21時06分42秒
  >いったいどうすれば、「神様の気持ち」になれるのでしょうか?
これは、私もすごく悩んだことです。
でも、私が体験したことは、こうでした。

誰かを、ものすごく愛してみることです。

全力投入で、必死に自分の時間のある限り

すると、神様が見えてきます。

そして、この神様を悲しませたくないと思う気持ちになって、

自分の今までの重荷もすべて、なくなりました。

私の場合ですが。
 

愛について

 投稿者:由希子  投稿日:2008年 6月10日(火)21時01分34秒
  いえもりさん、お返事ありがとうございます。
分かるようで、分かっていないのでしょうか。

恋は、たとえばお花の種のようなもので、

それを地面に植えるか植えないかは自分の責任で、

もし植えたら、もう二度と植え直しは効かないし、

抜いてもダメだし、

ましてや、それは2個も3個もなくて、

唯一つだけで。

恋つまり花の種は、結婚するまでは決して、

植えてはいけないと言うことでしょうか。

だから、やはり、恋は自分で操るものですよね。

運命の人なんて、この世にはいないですよね。
私の思い違いですよね。

そういえば、こうなったのも自分の気の緩みもあったのです。

神様を離れた隙見たいのがありました。
 

re:愛について

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2008年 6月10日(火)11時51分56秒
  ほんとうに、恋という気持ちは不思議ですよね。

人間は、ひとりだけじゃなくて、たくさんの人に恋をすると思います。

こういう気持ちになるのは、神様が与えてくださったものだと思います。

陽と陰は、神様によって、もとから引き合うようになっています。
ですから、どんな男性とどんな女性の間にも、恋する心は芽生えます。

これは人間だけではなくて、動物もそうです。
多種多様な動物がいますが、それぞれの種類ごとに、
雌雄が引き合います。

神様がそのようにしてくださったがゆえに、
どのような種も繁栄しています。

ですから、恋は人間にとってたいへん必要なものですね。

ただ、人間にとって、その恋は、さらに、永遠不変の絶対的な愛に結実しなければなりません。

恋する心は、どんな人に対しても、芽生えます。
今はこの人に恋心を感じていたとしても、
また違う人に恋心を感じるときがくるかもしれません。

その、すべての人を恋する気持ちが、ある一人の人をすべての人の代表として愛し、
神様の真実なる愛にまで到達していきます。

そのためには、唯一絶対ということが必要です。

それで、ただ一人の相手を決めてからは、
夫婦となり、子供が生まれて、個人よりひとつ上の家庭という段階に上っていきます。
 

愛について

 投稿者:由希子  投稿日:2008年 6月 9日(月)23時18分11秒
  こんばんは。
私は今、愛について悩んでいます。
私は結婚をしているので、主人だけを愛して、使えていこうと思っていたのですが、
どうしても、どうしても、惹かれてしまう人に出会ってしまいました。
最初は、その方が体が弱いので、お祈りをして愛していこうと(純粋な愛で)と思っていたのですが、その方の深い心の中を考えている間にこれは違う愛であると感じてしまったのです。
まるで、この人に合うために自分は生まれてきたのではないだろうかと思うほどに
考えてしまうようになってしまいました。
私はこの恋という気持ちが、なぜ生まれてくるのか不思議でなりません。
本来ならば愛だけでいいのではないかと思うのです。
恋は人間にとって必要なのでしょうか?
 

(無題)

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2008年 2月 9日(土)07時03分51秒
  > まず、制約のあるこの世界だからこそ、”愛する”ことができるのではないかということ。
> (つまり、愛する”喜び”と”死”という限界線は、切り離せない。)

> そして、有限のなかにしか存在できないその喜びを永遠に共有するために、霊界が必要だった。ということです。


私もそう思います。

神様は永遠の愛の世界を願ったのですが、その愛を育むには地上世界が必要ですよね。

また、もし肉体の死がなかったとしたら、地上世界は今の何万倍もの人口で溢れていて、食料にも困っていたことでしょう。

死があることによって、無限の人々が等しく自然の恵沢に浴することができるので、肉体の死も神様の愛ゆえにあると思います。

毎年春になると、桜の花が満開になります。私たちが見上げる桜の花を、千年前の歌人も同じように見上げて感動していたことを思い浮かべると、神様の愛は実に永遠で変わりなく公平であるなあと、つくづく感じさせられます。

実際、肉体の死というものは遺伝子に「プログラム」されているもので、神様が意図的にそのようにされたことがわかります。
 

(無題)

 投稿者:たろう  投稿日:2008年 1月28日(月)09時35分51秒
  いえもりさん、それからミューズさん、ご返事頂けて嬉しいです。

>たとえ理由はわからなかったとしても、皆霊界にいく

ぼくもそのように信じております。

>その方は、神様はどのように人間をおつくりになったのか、という観点で見ていらっしゃるでしょうか?

地上で永遠の命を与えられた人間と、霊界の住人である天使やイエス様が被造物で、それら全ての創造主が神、という観点があったと思います。

>神様の気持ちになって考えてみれば、地上での有限の命と霊界での永遠の命があるのが一番幸せなのがわかると思います。

いったいどうすれば、「神様の気持ち」になれるのでしょうか?


>考えたことが即実現される~~制約からは完全に解放され~
>完全に自由を謳歌できる霊界で生きるほうがはるかに素晴らしい~

制約から解放されることが本当に自由でしょうか?
自由を謳歌できることがそんなに素晴らしいのでしょうか?


あれから一応、僕も考えてみました。

まず、制約のあるこの世界だからこそ、”愛する”ことができるのではないかということ。
(つまり、愛する”喜び”と”死”という限界線は、切り離せない。)

そして、有限のなかにしか存在できないその喜びを永遠に共有するために、霊界が必要だった。ということです。

ご意見、お待ちしております。
 

RE:霊界について

 投稿者:ミューズ  投稿日:2008年 1月26日(土)00時08分4秒
  >地上で永遠の命をもった本然の人間にとって、霊界に行く必要がどこにあるのか?

霊界は時空を超越した世界であるため、活動範囲が無限にあります。また、霊界は想念の世界であるために、考えたことが即実現されるとともに相手にもすぐさまストレートに伝わる世界です。すなわち、人間は肉身をまとった地上界にいるときは様々な行動の制約を受けていたものが、霊界ではそのような制約からは完全に解放され、自由な素晴らしい世界で永遠に生きることになります。

キリスト教根本主義やエホバの証人などは“本然の世界では肉体は不死である”と頑なに信じていますが、仮にそれが真実だとしても、同じ永生するのであれば、上記のように完全に自由を謳歌できる霊界で生きるほうがはるかに素晴らしいといえるのではないでしょうか?

それゆえ、親なる神様は、最愛の人間に最高の喜びを永遠に与えるべく、地上界ではなく
霊界で永生するように人間を創造されたのです。これがご質問に対する明確な解答であります。
 

re:霊界について

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2008年 1月25日(金)22時07分11秒
  >「人はなぜ霊界にいくのか」
> いえもりさんは、どのように考えられますか?

私は、神様がそのようにおつくりになったのですから、たとえ理由はわからなかったとしても、皆霊界にいくというのが、まず基本にあると思います。

「地上で永遠の命をもった本然の人間にとって、霊界に行く必要がどこにあるのか」とその方はおっしゃっているそうですが、

その方は、神様はどのように人間をおつくりになったのか、という観点で見ていらっしゃるでしょうか?

神様の気持ちになって考えてみれば、地上での有限の命と霊界での永遠の命があるのが一番幸せなのがわかると思います。
 

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