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人間は、貴い存在です。

 投稿者:地球人メール  投稿日:2008年10月 2日(木)17時43分37秒
  はじめて、投稿させていただきます。小生も求道者として。
神様は、どんな目的で宇宙や地球星を創造されたのか
最も愛する人間に(我が子)望みは、創世記1/27
神様は自分のかたちに創造し、男と女として創造した。
神は彼らを祝福して言われた、[生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。・・・・・これは、人間が(人格者)立派に成長して素晴らしい伴侶とも家庭を建設して、子孫を繁栄しろ。万物を愛で主管して幸福な環境を整えろ!これから神からのメッセジーでした。

神様の愛は、完全的・唯一的・不変的・永遠的な愛です。
人間は、絶対的愛を求めています。これが、幸福の原点です。
このような愛が人間の到達するべき、基準です。
そこに、夫婦愛も完全です。そうような家庭の子孫も、子々孫々の繁栄する。家庭を目指すべきです。
神様と一体化して神様と共に、愛で万物を主管して素晴らし家庭環境を建設するのです。

 宇宙の世界を見ると、蒼茫広さに感動します。我々の地球がある銀河系では、星が100億あると言われています。この宇宙には、そのような銀河系が、1億ぐらい有るそうです。この膨大な夜空に見える星は、何十万光年距離に有ると言われます。光の速度は、1秒に地球を7周する速さですが。光の速度で、一年間の距離が1光年です。今見えている星は、計りしれないほどの時間が経過しているのでしょう。我々の地球歴史は、48億年ですか。人類が誕生は、100万年でしょう。人間の命は、100年ぐらいでしょう。宇宙から見た100年は、一瞬の目蓋の時間にすきません。そんな小さい人間の意義・価値・理想と何でしょうか?人間は、心と躰からできています。目に見える躰は、60兆の細胞から脳や五臓六腑から構成されています。
身体は(臓器・脳・五感・骨格・筋肉・血液・体液)素晴らしい機能です。
 神様の祝福により男と女の合体が心と体の愛のビックバンが始まると、まさしく神秘的でものです。男性の精子は、1億5千万~2億の中のたった一つの優秀なサラブレッドが、到達できるのです。残りの全ての精子は、犠牲になるのです。男性の精子は、1日に約5千万~数億個ずつ、死ぬまで作る精子の数は、1兆~2兆個にもなるそうです。女性が、受精して生命として誕生できる精子は、1兆~2兆個のうち、たったの2個か5個なのです。驚くべき神秘的な出来事です。人間が誕生するのは、尊いのです。人間は、小宇宙といわれる原因です。
 本来の愛する事、愛され事は、ために生きる事です。唯一的の男女であり、唯一的の夫婦であります。永遠に夫婦の愛です。夫婦の心は不変的です。夫婦の愛こそ完成の愛です。神様の願いは、神様を中心とした家庭です。人間は、愛の完成であり。過去・現在・未来に繋げる歴史的な結実体です。
人間は、遅かれ早かれ、死が訪れます。肉体は、土にもどり霊魂は、永遠の続きます。
地上界が暮らした生涯が、永遠の世界では本性丸裸になります。ために生きた人は良心的生活になります。
反対に、自己中心的に過ごした人は、それは悲惨な生活が待っています。
 
 

(無題)

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2008年 9月 4日(木)05時52分46秒
  8日まで不在になります。
この間、更新が出来ませんが、なにとぞご容赦ください。
 

たろうさんへ

 投稿者:由希子  投稿日:2008年 6月10日(火)21時06分42秒
  >いったいどうすれば、「神様の気持ち」になれるのでしょうか?
これは、私もすごく悩んだことです。
でも、私が体験したことは、こうでした。

誰かを、ものすごく愛してみることです。

全力投入で、必死に自分の時間のある限り

すると、神様が見えてきます。

そして、この神様を悲しませたくないと思う気持ちになって、

自分の今までの重荷もすべて、なくなりました。

私の場合ですが。
 

愛について

 投稿者:由希子  投稿日:2008年 6月10日(火)21時01分34秒
  いえもりさん、お返事ありがとうございます。
分かるようで、分かっていないのでしょうか。

恋は、たとえばお花の種のようなもので、

それを地面に植えるか植えないかは自分の責任で、

もし植えたら、もう二度と植え直しは効かないし、

抜いてもダメだし、

ましてや、それは2個も3個もなくて、

唯一つだけで。

恋つまり花の種は、結婚するまでは決して、

植えてはいけないと言うことでしょうか。

だから、やはり、恋は自分で操るものですよね。

運命の人なんて、この世にはいないですよね。
私の思い違いですよね。

そういえば、こうなったのも自分の気の緩みもあったのです。

神様を離れた隙見たいのがありました。
 

re:愛について

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2008年 6月10日(火)11時51分56秒
  ほんとうに、恋という気持ちは不思議ですよね。

人間は、ひとりだけじゃなくて、たくさんの人に恋をすると思います。

こういう気持ちになるのは、神様が与えてくださったものだと思います。

陽と陰は、神様によって、もとから引き合うようになっています。
ですから、どんな男性とどんな女性の間にも、恋する心は芽生えます。

これは人間だけではなくて、動物もそうです。
多種多様な動物がいますが、それぞれの種類ごとに、
雌雄が引き合います。

神様がそのようにしてくださったがゆえに、
どのような種も繁栄しています。

ですから、恋は人間にとってたいへん必要なものですね。

ただ、人間にとって、その恋は、さらに、永遠不変の絶対的な愛に結実しなければなりません。

恋する心は、どんな人に対しても、芽生えます。
今はこの人に恋心を感じていたとしても、
また違う人に恋心を感じるときがくるかもしれません。

その、すべての人を恋する気持ちが、ある一人の人をすべての人の代表として愛し、
神様の真実なる愛にまで到達していきます。

そのためには、唯一絶対ということが必要です。

それで、ただ一人の相手を決めてからは、
夫婦となり、子供が生まれて、個人よりひとつ上の家庭という段階に上っていきます。
 

愛について

 投稿者:由希子  投稿日:2008年 6月 9日(月)23時18分11秒
  こんばんは。
私は今、愛について悩んでいます。
私は結婚をしているので、主人だけを愛して、使えていこうと思っていたのですが、
どうしても、どうしても、惹かれてしまう人に出会ってしまいました。
最初は、その方が体が弱いので、お祈りをして愛していこうと(純粋な愛で)と思っていたのですが、その方の深い心の中を考えている間にこれは違う愛であると感じてしまったのです。
まるで、この人に合うために自分は生まれてきたのではないだろうかと思うほどに
考えてしまうようになってしまいました。
私はこの恋という気持ちが、なぜ生まれてくるのか不思議でなりません。
本来ならば愛だけでいいのではないかと思うのです。
恋は人間にとって必要なのでしょうか?
 

(無題)

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2008年 2月 9日(土)07時03分51秒
  > まず、制約のあるこの世界だからこそ、”愛する”ことができるのではないかということ。
> (つまり、愛する”喜び”と”死”という限界線は、切り離せない。)

> そして、有限のなかにしか存在できないその喜びを永遠に共有するために、霊界が必要だった。ということです。


私もそう思います。

神様は永遠の愛の世界を願ったのですが、その愛を育むには地上世界が必要ですよね。

また、もし肉体の死がなかったとしたら、地上世界は今の何万倍もの人口で溢れていて、食料にも困っていたことでしょう。

死があることによって、無限の人々が等しく自然の恵沢に浴することができるので、肉体の死も神様の愛ゆえにあると思います。

毎年春になると、桜の花が満開になります。私たちが見上げる桜の花を、千年前の歌人も同じように見上げて感動していたことを思い浮かべると、神様の愛は実に永遠で変わりなく公平であるなあと、つくづく感じさせられます。

実際、肉体の死というものは遺伝子に「プログラム」されているもので、神様が意図的にそのようにされたことがわかります。
 

(無題)

 投稿者:たろう  投稿日:2008年 1月28日(月)09時35分51秒
  いえもりさん、それからミューズさん、ご返事頂けて嬉しいです。

>たとえ理由はわからなかったとしても、皆霊界にいく

ぼくもそのように信じております。

>その方は、神様はどのように人間をおつくりになったのか、という観点で見ていらっしゃるでしょうか?

地上で永遠の命を与えられた人間と、霊界の住人である天使やイエス様が被造物で、それら全ての創造主が神、という観点があったと思います。

>神様の気持ちになって考えてみれば、地上での有限の命と霊界での永遠の命があるのが一番幸せなのがわかると思います。

いったいどうすれば、「神様の気持ち」になれるのでしょうか?


>考えたことが即実現される~~制約からは完全に解放され~
>完全に自由を謳歌できる霊界で生きるほうがはるかに素晴らしい~

制約から解放されることが本当に自由でしょうか?
自由を謳歌できることがそんなに素晴らしいのでしょうか?


あれから一応、僕も考えてみました。

まず、制約のあるこの世界だからこそ、”愛する”ことができるのではないかということ。
(つまり、愛する”喜び”と”死”という限界線は、切り離せない。)

そして、有限のなかにしか存在できないその喜びを永遠に共有するために、霊界が必要だった。ということです。

ご意見、お待ちしております。
 

RE:霊界について

 投稿者:ミューズ  投稿日:2008年 1月26日(土)00時08分4秒
  >地上で永遠の命をもった本然の人間にとって、霊界に行く必要がどこにあるのか?

霊界は時空を超越した世界であるため、活動範囲が無限にあります。また、霊界は想念の世界であるために、考えたことが即実現されるとともに相手にもすぐさまストレートに伝わる世界です。すなわち、人間は肉身をまとった地上界にいるときは様々な行動の制約を受けていたものが、霊界ではそのような制約からは完全に解放され、自由な素晴らしい世界で永遠に生きることになります。

キリスト教根本主義やエホバの証人などは“本然の世界では肉体は不死である”と頑なに信じていますが、仮にそれが真実だとしても、同じ永生するのであれば、上記のように完全に自由を謳歌できる霊界で生きるほうがはるかに素晴らしいといえるのではないでしょうか?

それゆえ、親なる神様は、最愛の人間に最高の喜びを永遠に与えるべく、地上界ではなく
霊界で永生するように人間を創造されたのです。これがご質問に対する明確な解答であります。
 

re:霊界について

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2008年 1月25日(金)22時07分11秒
  >「人はなぜ霊界にいくのか」
> いえもりさんは、どのように考えられますか?

私は、神様がそのようにおつくりになったのですから、たとえ理由はわからなかったとしても、皆霊界にいくというのが、まず基本にあると思います。

「地上で永遠の命をもった本然の人間にとって、霊界に行く必要がどこにあるのか」とその方はおっしゃっているそうですが、

その方は、神様はどのように人間をおつくりになったのか、という観点で見ていらっしゃるでしょうか?

神様の気持ちになって考えてみれば、地上での有限の命と霊界での永遠の命があるのが一番幸せなのがわかると思います。
 

霊界について

 投稿者:たろう  投稿日:2008年 1月20日(日)16時37分24秒
  先日、ある宗教をやっている方が家に来ました。

その方は、人は死ぬと「無」になると言いました。
しかし、霊界を否定しているわけではありません。
本然の世界が訪れると、人は「死なない」のだと言うのです。
そして、死んだ人も「無」の状態から蘇るというのです。

僕にはとても、納得できる話ではありませんでした。
それで、僕はその人に問いました。
もしこの地上で、人が永遠の命をもった場合、
「新しい命の誕生の喜びが消えるよ」
「命がけで生きる、ということが出来なくなるよ」と

でもその人は言いました。「喜びはそれだけではない」と

その人の問いは、こうです。
「地上で永遠の命をもった本然の人間にとって、霊界に行く必要がどこにあるのか」

僕には、答えが見つかりません。

「人はなぜ霊界にいくのか」
いえもりさんは、どのように考えられますか?
 

Re

 投稿者:たろう  投稿日:2007年12月14日(金)12時42分37秒
  >真の神様を証したいという動機があれば、上記も善ではないのでしょうか?

ぼくもそう思います。

>神様が人間のために創造した万物と言う点においてはそれははじめから万物は創造目的があり絶対的価値を持っているというのは正しいと思います。

これも同感です。

ただ、それは信じる世界であって、5%が果たされない限りは実現されないのではないでしょうか。

しかしこの世界は、神様の「完全」なもので満ちていると思います。

だからたとえ自己中に造った作品であっても、「不倫の物語」であったとしても、

それを確認する主体しだいで、「創造本然の価値」は、現すことが出来るのだと思います。

それから、「講論」のコメントは、ミューズさん宛てです。念のため。
 

re:神の創造目的と芸術的創作活動

 投稿者:NINNIN  投稿日:2007年12月13日(木)21時03分3秒
  ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものでなく、
その個性体が、神の創造理想を中心として ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定される。(講論より)

人間を中心とした創造本然の価値の実現に対してこのように書かれていますが、神様が人間のために創造した万物と言う点においてはそれははじめから万物は創造目的があり絶対的価値を持っているというのは正しいと思います。もともと神を中心とした四位基台があってできているのです。そして、神様の創造目的があって、創造本然の価値追求欲もあります。

すなわち、創造本然の価値は、人間が神様を中心として愛することによって完全なものとなります。万物の価値は人間を通じて完全となります。また、人間によって、良くも悪くもなると言う意味においては相対的です。ここに神様の95%と人間の責任分担5%によって成り立つという考え方がここに適用できると思います。
 

一般レベルで・・

 投稿者:NINNIN  投稿日:2007年12月13日(木)18時56分49秒
  いえもりさん、あおられていますね。一般公開の掲示板なのであくまでもなるべく受け入れやすい言葉で語っているのですよね。

不倫の愛でない愛を本当に実現するにはどうしたらよいか?自由恋愛では実現できないのか?もし、誰もが恋愛の対象だったら、移り目しますよね。人類は皆兄弟姉妹と言うけど本当に皆兄弟姉妹になるにはどういう価値観でどのようにしたらよいか?そういうところから話しても良いのではないかと思います。

内部同士突っつきあう目的の掲示板でないのですから。
 

不倫の愛のテーマ

 投稿者:ミューズ  投稿日:2007年12月 8日(土)21時06分7秒
  >不倫というのは、夫婦関係がありながら別の異性にわき目をふることを言うので、この物語が扱っているのとはちょっと違うように思います。男女の愛と男女の不倫の愛とは明確に区別される必要があると思いますね。

これは、あくまでも不倫の愛に対する従来の常識的な考え方です。この意味での不倫は家庭のみならず国家社会を崩壊させる危険性を持っているために、程度の差こそあれ、どの社会でも道徳的非難に値する行為とされてきたわけです。しかしながら、統一原理の立場では、神を中心としない男女の愛、すなわち自由恋愛は神の創造目的に反する偽りの愛であり、まさしく不倫の愛というべきものです。

また、従来の価値観では男女の愛をテーマとした芸術音楽作品という理由だけで忌避されることはありませんが、統一思想の芸術論の立場では明らかに神の創造目的に反する音楽であるということになると思います。ポピュラー音楽もまた然りです。

もちろん、男女の愛をテーマとする従来の作品(例えばヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」)であっても今後も第1級の芸術的価値を失うことはありませんが、来るべき天一国ではこのような(神の創造目的に反する)テーマの作品が作られることはないということです。
 

re:re:神の創造目的と芸術的創作活動

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2007年12月 8日(土)11時42分2秒
  > それは端的に言うと、男女の不倫の愛をモチーフにした音楽のことを指すのではないでしょうか?

> 例えば、ドイツ・ロマン派オペラ最大の巨匠リヒャルト・ヴァーグナーは、有名な「トリスタンとイゾルデ」という作品を残していますが、このオペラのテーマとしては「姦通と不道徳」の物語です。

「トリスタンとイゾルデ」で検索して調べてみました。

映画『トリスタンとイゾルデ』公式サイト
http://movies.foxjapan.com/tristanandisolde/

これを見ますと、トリスタンとイゾルデの愛の物語は純愛の物語であるようにも思います。
不倫というのは、夫婦関係がありながら別の異性にわき目をふることを言うので、この物語が扱っているのとはちょっと違うように思います。

しかし、第1幕に出てくる魔術に通じたイゾルデの母が教えた薬が媚薬で、2人が突然惹かれ合い、愛の法悦に浸ったというのは、肉欲によって2人が関係を結んでしまったことを意味しており、確かに神様の願いとは違っていますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%83%87_%28%E6%A5%BD%E5%8A%87%29

それでもこの問題についても流布本系と騎士道本系で違った解釈があるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%83%87

ですから、一概にこの物語は不倫の物語だとは言えないですね。


> ヴァーグナー以外のオペラ、さらにオペラ以外の歌曲にも男女の不倫の愛をテーマにしたものが数多くあります。
> もちろん、そのようなテーマの作品だとしても、脚本家や詩人、作曲家が必ずしもそのテーマを肯定的に扱っているわけではない(すなわち批判的に扱っている場合もある)と思いますが。

先ほど言ったように、わき目を振るような不倫の愛は、神様に悲しみを与えると同時に、自分や家庭をも崩壊させてしまうものですから、これを肯定するような作品は、無価値であり、有害だとすらいえるでしょう。

また、不倫を批判的に扱っていたとしても、不倫をテーマにすること自体、神様に悲しみを与えるのではないでしょうか。


> いわゆるクラシック音楽のみならず様々なジャンルのポピュラー音楽(いわゆる商業音楽)にも男女の愛をテーマにしたものが数え切れないほどあり、もし、現在、これらの楽曲を禁止したら音楽業界は成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。

男女の愛と男女の不倫の愛とは明確に区別される必要があると思いますね。
 

re:神の創造目的と芸術的創作活動

 投稿者:ミューズ  投稿日:2007年12月 5日(水)21時27分21秒
  >「神様の創造目的に反する価値観」とは具体的にはどういうことをおっしゃっているのでしょうか?

それは端的に言うと、男女の不倫の愛をモチーフにした音楽のことを指すのではないでしょうか?

例えば、ドイツ・ロマン派オペラ最大の巨匠リヒャルト・ヴァーグナーは、有名な「トリスタンとイゾルデ」という作品を残していますが、このオペラのテーマとしては「姦通と不道徳」の物語です。しかも、ヴァーグナーはそれを究極の愛の物語へと昇華させており、不倫の愛(それも純粋な精神的な愛だけではなく、肉体を伴った性愛)の果てには死しかないという価値観に基づいています。

また、ヴァーグナー以外のオペラ、さらにオペラ以外の歌曲にも男女の不倫の愛をテーマにしたものが数多くあります。もちろん、そのようなテーマの作品だとしても、脚本家や詩人、作曲家が必ずしもそのテーマを肯定的に扱っているわけではない(すなわち批判的に扱っている場合もある)と思いますが。

さらに、いわゆるクラシック音楽のみならず様々なジャンルのポピュラー音楽(いわゆる商業音楽)にも男女の愛をテーマにしたものが数え切れないほどあり、もし、現在、これらの楽曲を禁止したら音楽業界は成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。
 

re:神の創造目的と芸術的創作活動

 投稿者:たろう  投稿日:2007年12月 5日(水)20時45分27秒
  >統一思想によれば、人間を含めた有形無形あらゆるものの存在目的ないし存在価値は
>絶対者である神様との相対的関係によって生じるものとされています。
>すなわち、絶対者の創造目的こそがあらゆる価値の根拠となっているわけであり・・・

少し違うと思います。

 ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものでなく、
 その個性体が、神の創造理想を中心として、
 ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が
 相対的関係を結ぶことによって決定される。   (講論より)

つまり創造本然の価値決定は、何を中心として相対的関係を結んだか、が問題となってくるのだと思います。

芸術的創作活動も同じではないでしょうか
 

re:神の創造目的と芸術的創作活動

 投稿者:いえもりメール  投稿日:2007年12月 4日(火)14時55分25秒
  > 統一思想によれば、人間を含めた有形無形あらゆるものの存在目的ないし存在価値は絶対者である神様との相対的関係によって生じるものとされています。すなわち、絶対者の創造目的こそがあらゆる価値の根拠となっているわけであり、当然、美的価値を追求しあるいは実現する芸術的創作活動もまた絶対者の創造目的に合致するものでなければなりません。それでは具体的にどのような芸術的創作活動ないし芸術作品が神の創造目的に合致するものといえるのでしょうか?

芸術に用いる万物はすべて絶対者がお創りになったものであり、創造本然の美を持っています。
この創造本然の美をより引き出すものが神の創造目的に合致すると言えるのではないでしょうか。
また逆に、この創造本然の美を台無しにしてしまうことは神の創造目的に合致していないと言えると思います。


> あるいは、逆に創造目的に合致しない創作活動ないし作品があるとすれば、それはどのようなものでしょうか?

具体的にこれとは言いがたいですが、神様の創造理想を破壊するようなものがこれに当てはまると思います。


> このように音楽という芸術はもともと抽象性が高い上に、20世紀以降、音楽様式もますます多様化し、さらに古来からある各地域の民俗音楽も全く異なった個性を持っています。いわば芸術(特に音楽)に関しては、時代によりまた地域により、さらに創作者により明らかに多種多様な価値観のもとに創作活動が行われてきたことになります。
>
> 冒頭に述べたように、芸術的創作活動といえども、究極的には絶対者の創造目的に合致するものでなければならない(いわば共通の芸術的価値観)わけですが、個別の作品レベルでは創作者の個性が反映された多種多様性がなくてはなりません(そうでなければ、面白みのないコピー作品ばかりになってしまう)。それでは、この共通の芸術的価値観と多様な芸術的創作活動(ないし芸術作品)とのバランスはいかにして保たれるのでしょうか?


調和とかハーモニーというのは、2つのものが共鳴しあって、1つのときよりもより素晴らしく、神の創造のみわざを世に出現させます。
絶対者を中心にして、様々な方向における陽陰の二性性相の相対的関係によって、多様性も生まれてきます。
このような観点に立ったときに、この共通の芸術的価値観と多様な芸術的創作活動もバランスを保つことが出来ると思います。

しかし、この観点に立たない創作活動は、芸術に用いる題材の存在理由もわからず、調和の原点もわからないので、創造本然の価値を発揮しにくくなってしまうでしょう。


> とりわけ音楽(特に器楽音楽)のような抽象性の高い芸術の場合、個々の作品が上記の価値観に合致するものであるかどうかを客観的に判定できるものなのでしょうか?

音というものはそもそも神様がお創りになったもので、音楽においてはこの調和の素晴らしさを堪能することになります。
なので、器楽音楽においては、基本的に、上記の価値観を逸脱しにくいのではないでしょうか。


> また、今日、聴かれている音楽(芸術音楽、娯楽音楽を問わず)の中で、これは神の創造目的に反する価値観の下に作られた(あるいは楽曲自体が上記価値観に反する)といえるものがあるでしょうか?

どうでしょうか?
神様の創造目的を知らない人が作ったとしても、音自体が神様の創ったものですから、
神様の創造目的を否定することは出来ません。

「神様の創造目的に反する価値観」とは具体的にはどういうことをおっしゃっているのでしょうか?
 

神の創造目的と芸術的創作活動

 投稿者:ミューズ  投稿日:2007年12月 2日(日)10時52分51秒
  統一思想によれば、人間を含めた有形無形あらゆるものの存在目的ないし存在価値は絶対者である神様との相対的関係によって生じるものとされています。すなわち、絶対者の創造目的こそがあらゆる価値の根拠となっているわけであり、当然、美的価値を追求しあるいは実現する芸術的創作活動もまた絶対者の創造目的に合致するものでなければなりません。それでは具体的にどのような芸術的創作活動ないし芸術作品が神の創造目的に合致するものといえるのでしょうか?あるいは、逆に創造目的に合致しない創作活動ないし作品があるとすれば、それはどのようなものでしょうか?

ところで、芸術には文学、美術、音楽、演劇、映画等様々な分野がありますが、諸芸術の中で音楽とりわけ器楽音楽は具象的な世界を超越した世界を表現することができます。それゆえ、音楽(とりわけ器楽曲などの絶対音楽)は、その漠たる抽象性ゆえに無限に想像力の翼をはばたかせることができ、また、音楽が表現するところの個人の最も深い内面感情が宇宙の鳴動と一体化するようないわば擬似宗教的な陶酔感(エクスタシー)をもたらす芸術であるともいえます。

上記のように音楽は本来、抽象性の高い芸術であり、しかもベートーヴェン以降の19世紀ロマン派(特にドイツ・ロマン派)の巨匠は後世に残るような記念碑的な作品の創作をめざして活動を行ってきました。それゆえ、19世紀ロマン派の巨匠(シューベルト、シューマン、ブラームス、ヴァーグナー、ブルックナー、マーラー等)の個々の作品の個性は際立ったものになっています。その後、20世紀に入ると、印象派音楽や無調音楽、十二音音楽の出現にみられるように、基本的な音楽技法そのものが多様化し、さらに第二次大戦後今日に至るまで、芸術音楽の分野は音楽様式の面で実に混沌とした状況にあります。また、周知のとおり、20世紀はアングロ・サクソン系の様々なポピュラー音楽(ジャズやロック音楽、ポップス、映画音楽、ミュージカル等)が隆盛した時代でもあります。(また、中国、インド、日本等世界各地には古来から伝統的な民俗音楽があります)

このように音楽という芸術はもともと抽象性が高い上に、20世紀以降、音楽様式もますます多様化し、さらに古来からある各地域の民俗音楽も全く異なった個性を持っています。いわば芸術(特に音楽)に関しては、時代によりまた地域により、さらに創作者により明らかに多種多様な価値観のもとに創作活動が行われてきたことになります。

冒頭に述べたように、芸術的創作活動といえども、究極的には絶対者の創造目的に合致するものでなければならない(いわば共通の芸術的価値観)わけですが、個別の作品レベルでは創作者の個性が反映された多種多様性がなくてはなりません(そうでなければ、面白みのないコピー作品ばかりになってしまう)。それでは、この共通の芸術的価値観と多様な芸術的創作活動(ないし芸術作品)とのバランスはいかにして保たれるのでしょうか?

とりわけ音楽(特に器楽音楽)のような抽象性の高い芸術の場合、個々の作品が上記の価値観に合致するものであるかどうかを客観的に判定できるものなのでしょうか?また、今日、聴かれている音楽(芸術音楽、娯楽音楽を問わず)の中で、これは神の創造目的に反する価値観の下に作られた(あるいは楽曲自体が上記価値観に反する)といえるものがあるでしょうか?
 

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